江戸の常識は現代の非常識〜刺青への誤解が生まれた経緯

江戸時代には様々な職人集団が江戸文化の花形を担っていました。

こうした職人集団のファッションのうち、最も人々の注目を浴びたのが刺青(当時は「文身」「彫り物」と呼ばれ、犯罪者の証として刑罰に入れた「入れ墨」と明確に区別されていた)です。

船頭の刺青

それぞれの職人集団には、お抱えの専属刺青師がおり、その職人集団を示す独自様式の刺青をデザインしたりコーディネートしていました。

火消しの刺青

刺青師と職人集団は緊密な関係であったため、毎年恒例の大山詣などの観光イベントにも連れ立って参堂する習慣がありました。

職人集団と刺青師が共に、江戸から神奈川県の大山神社まで徒歩の長旅をおこない、そこで登山をして、頂上の神社でお参りをして、その年も一年、無事に元気に過ごすことが出来たことを感謝したのです。

歌舞伎演目の大山詣で見られた役者の刺青

歌舞伎演目の大山詣で、途中の滝で行水するシーン

刺青師と職人集団は一心同体のグループである「組」を形成し、同じグループを示す刺青を身にまとっていた訳です。
みなさんが今でも目にするお祭りなどの時の「〇〇組」や刺青師の名を記した「彫◯」などの千社札のステッカーは、その当時のグループであった「組」カルチャーの名残りなのです。

ですから、現代の”刺青が任侠の証である”という常識は半分は当たっていますが、半分は的外れなのです。

職人集団という集合体の中のごく一部分が任侠であり、実際には任侠よりも職人集団の方が人数的なボリュームが圧倒的に大きかったからです。

例えば今でも、映画撮影の職人たちは「〇〇組」の〇〇の部分に映画監督の名を入れて呼ぶ習わしが有ります。建設会社でも同様です。これも当時の職人集団の呼び名の名残りなのです。

江戸の当時に大流行していた歌舞伎や、当時のファッション雑誌の役割を担っていた浮世絵によって、こうした職人集団の粋な文化が大衆に広まってゆくことになります。

歌舞伎演目の大山詣の役者の刺青

それがあまりにも「粋」だったので、一般の江戸町人にも拡大されていった経緯が有るのです。

ところが、明治〜大正期に欧米列強に対抗する近代国家を目指すことになった日本政府が、こうした伝統的身体装飾文化をやめさせて近代的な欧米型の軍隊を創設するため刺青を禁止してしまいます。

当時は伝統和彫だけでなく、アイヌや琉球のトライバルタトゥー、お歯黒、日本髪などの伝統的な身体装飾が全て禁止されてゆきました。

大日本帝国陸軍が取り入れた近代フランス式軍隊

このタイミングで、かつて江戸の職人の文化であった刺青が、いつの間にかアンダーグラウンドな任侠だけのイメージとなってしまったのです。

しかし、元々は信じられるものは自分の腕と身体だけで生きるフリーエージェントな職人集団ごとの「男気」「粋」「勇ましさ」を示す身体装飾が刺青というものでした。

さて、現代のフリーエージェントの花形とは、どういった立場の方々でしょうか?

それはプロスポーツ選手や芸能人、経営者、一人親方の職人さんたちなどです。

数百年が経過した今でも、江戸の刺青文化は形を変えども、そうした職人的プロ意識をお持ちの方々に脈々と受け継がれているのです。

さらに現代においては、欧米の軍人が戦士の証として盛んにタトゥーを入れる時代になり、明治期の日本が追いかけてきた欧米列強の軍人の装いが全く変わってしまいました。

現代米陸軍の軍人のタトゥー

ようするに日本は欧米に追いつくために独自文化を捨て、たくさんの犠牲を払いましたが、ようやく追いついたと思ったら目標だった欧米人の価値観、文化は既に大きく変化していたという事になります。

日本にはいったん決めたルールを変えない事を尊ぶ文化がありますが、欧米ではルールは時代に合わせて変えてゆくべきものという文化があるからです。

米陸軍からレクチャーを受ける自衛隊員

日本の常識がなんだか滑稽に見えてしまうのは私だけでしょうか?

本当に強い集団を作る事が出来るのは、

ルールを変えない国でしょうか?

それとも、

時代に合わせてルールを変えてゆく国でしょうか?

これから未来にかけて、その文化の違いによる結果が証明されてゆくことになるんでしょうね。