刺青は中国と日本の古代海洋系民族、狩猟民族に共通の文化です。

 刺青は古くは、鯨面文身(げいめん ぶんしん)と呼ばれておりました。
文身(ぶんしん)は身体に入れるいわゆる刺青(入れ墨という蔑称)、鯨面(げいめん)は顔にほどこす刺青(場合によっては顔面彩色を伴うものであり、つまり化粧)のことです。
現存する最古の文献では、中国の呉越時代の呉王が長江以南の海岸部に居住していた白水郎(海女)の文化風習を模倣し自ら鯨面文身をおこない、出身地の北朝には戻らないことを決意したとされる故事が存在しています。また、さらに後の長江河口部にできた新しい呉の呉王孫権も鯨面をしていたとあります。

つまり中国では鯨面文身は中国南部の海洋系民族の風習であると認識されてきた歴史が有ります。

また魏志倭人伝にも、古代中国王朝の「夏后少康の子が、会稽に封じられ、断髪文身、以って蛟竜の害を避く」と記されており、これは「水中の海獣などから身を護る魔よけのまじない」「いくさのときの弾除けや威嚇、自分自身を鼓舞するため」「巫女などの霊媒師の現実世界の人間と自分を区別させるための権威的・憑依風習」と考える事が出来ます。

古代日本でも中国や海洋系民族の影響を受けた文化が受け継がれ鯨面文身が行なわれていた記録が多数散見されており、この様式は氏族により差異があったと考えられています。その差異は発掘された埴輪などに見いだす事が出来ます。
大きく分けますと、海洋系民族であった久米、隼人、阿曇、宗像などと、北方の狩猟系縄文人、力士や巫女・贄部=動物を飼う人々(鳥飼部や猪飼部)の民族的、文化的、宗教的な刺青と、罪人の入れ墨に区別する事が出来、それぞれに特有の装飾パターンを持っていたと考えられています。
『古事記』の神武天皇東征の条には、「大国主命の黥利目」(さけるとめ:目の周辺に刺青を施した鋭い目)の記述がみられますが、これは目の周りにアイライン状の刺青をした鋭い目という意味の記述なのです。
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さらに『古事記』の神武天皇段にも、神武天皇から三輪の大物主神の娘・伊須気余理比売への求婚の使者としてやって来た大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ:目の周辺に刺青を施した鋭い目)を見て、伊須気余理比売が奇妙に感じた、と記されています。
これらの日本神話の中の記述を見ても、日本では男女共にかなり古くからアイメイクに、当店ファンタジーメイク同様の刺青を使用する習慣があった事が伺えるのです。
『日本書紀』にも、履中天皇元年四月条に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に対し、本来は死罰に当たるのを免じて罰として黥面をさせ、当時の人はこれを「阿曇目」と呼んだとの記事があり、雄略天皇十年十月条には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部としたとの記事があります。
しかし、こうした海洋系民族の長であった阿曇氏にはもともと海人の刺青の風習があったはずですし、家畜鳥獣の飼育者のような特殊な職業の人々にも同様の文化があった可能性が高いため、この2つの記述は、「刺青の風習が次第に廃れていき、これがやがて日本で刑罰として用いられるようになった事を肯定させるための部分的な改変」である可能性も有ります。
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